「えっ、あ…いえ、なんでも…」
「そう?寝不足ですか?」
「はは、いや…ちょっと考え事を…」
不思議そうな彼女に、たった今あなたの事を考えていたんですなんてとてもじゃないけど言えなかった。
化粧っ気はないが身綺麗で清楚な彼女はいつも長い黒髪をきっちりまとめていて、その奥に見えるうなじは白い。
細身でタイトな体は男受けのするタイプではなくきちんとした真面目な印象と知性を感じさせるのだが、薄い唇はほんのり赤くどこか色っぽい。
「あの…
付き合ってほしいなんて図々しい事は求めないが一年、いや半年…いや、転勤までの数ヶ月くらいでいいから友好的な、少し良い関係になりたい。
いや、むしろこの研究所を離れる前に一度だけでも一緒に食事に行けたらそれだけでいい。
そんな思いを込めて彼女の後ろ姿に声をかけた。
先輩に美味しい地中海料理のお店があるって聞いたんだ、と頭のなかで繰り返す。
「はい?」
今度一緒に行きませんか、と。。
言うんだ。スマートに、さらっと。
そう自分を励ますも口から出たのは「あ…納入の件の連絡なんだけど…」
何をしているんだか、なんとか声をかけてやっと出てきたのはバカみたいな業務連絡だった。
「いや…そうじゃなくて、あの…ご、ご飯…行きませんか」
もし彼女が食事の誘いを受けてくれたら気持ちを伝えようと思っていた。
どうせ振られてもすぐ転勤だし大した痛手にはならないしそうなったらお見合いでもしようと己の保身まで考えて決めたというのに。
それがなんだ、そもそもの誘いさえ上手く言えないなんて。
悲しいけれどこういうようなことは人生に時々ある。
「この前、地中海…料理?の美味しい所を聞いて…」
「地中海料理良いですね、いつにしましょう」
「一人じゃ入りにくくて、それで良かったらと思って…って…え?」
しどろもどろな俺の誘いを彼女が受けてくれた、その事実がすんなり頭に入ってこなくて動揺で震えそうな手にぐっと力を入れた。
この場で叫んで踊り出したい気持ちを抑える。
「あの…こ、今夜って、空いてます?」