恋のはじまり

憧れの彼…

「お待たせ致しまし…た」

そこに立って段ボールを抱えている男性に、私の全身が反応した。

………

………

「〇〇印刷の古宮こみやと申します」

………

………

甘い声で彼にぴったりだった。

次に会えるのは月曜の朝だと思っていた彼が、今ここにいる。

取引先の印刷会社に勤めている彼が品物を納品する為にオフィスを訪れたという単純な話なのに、状況が上手く飲み込めなくて私は口をパクパクさせた末に彼を部屋へ案内した。

手遅れであることは知っていたけれど平静を装って段ボールの中身を一通り確認し、それから資料を入れたファイルを差し出した。

「こちらがいつもお渡ししている資料です」

「分かりました」

機械仕掛けみたいに言葉を発し、いつ話を切り出そうかと悩んでいた。

「あの…俺のこと知ってますか」

少し慌てた口調で彼は言った。

「朝、電車で…」

「やっぱりそうですよね。あるんだ…こんなこと…」

彼の顔はもう真っ赤になっていて、片手で口元を押さえていた。

無邪気な仕草が可愛らしいのに骨ばった手が異様に艶めかしい。

「ビックリしちゃいました。いつか話してみたいって思ってました」

「俺もです。声も、名前も、ずっと知りたかったんです」

憧れの有名人と遭遇した人みたいに感動と動揺が入り混じった声色で彼は話した。

私の方が彼を思っていたはずなのに、彼の方がもっと私に気があるように思えてしまう。

「桃川さん、下の名前教えてもらえませんか」

麻衣まいです」

「麻衣…さん。桃川麻衣さん…可愛い名前ですね」

「ありがとうございます。古宮さんは?」

拓也たくや、って言います。えっと…これ受け取ったので帰りますね」

「あ…はい」

彼はすっと立ち上がり部屋を出ようとする。

もう少し話せると期待していたから、毎朝彼の背中を見送る時と同じ気分になった。

彼は部屋を出て、オフィスを出る扉を開けた。

「失礼します」

「ありがとうございました」

そして彼は共用部へ足を踏み入れる。

恋しくて扉を開けたまま彼を目で追った。

「お仕事、何時に終わりますか」

前触れも無く彼は振り向いてそう言った。

私の視線が彼に届いていたのかもしれない。

「19時!」

咄嗟に答えると、彼はニコリと笑った。

「その時間に下で待ってます」

彼はそう言った途端、階段を駆け下りた。

軽い足取りだけが聞こえ、彼はいなくなってしまった。

好きな人からの突然の出会いと誘いに私は良い意味で壊れてしまいそうだった。

数時間後にまた彼と会える、話せる、それが救いとなってその後の仕事は捗った。

そして気付けば18時45分、あと少し。

「桃川さん。申し訳ないけど半分手伝ってもらっていい?」

「はい。大丈夫ですよ」

お世話になっている先輩の頼みは断りづらく引き受けてしまった。

受け取った書類とデータを見ると30分はかかりそうな仕事内容。

彼には申し訳ないけれどしばらくどこかで待っていてもらおう。

19時に一旦下へ降りてそのことを伝えよう。

「あ、過ぎてる…」

早く仕事を終わらせようと没頭していた為、時計には19時3分とあった。

私は小走りでビルの外に出た。

でも見渡す限り彼らしき人物はいない。

近くにある飲食店を覗き込んでみたけれどそこにも彼の姿はない。

道路を行ったり来たりして19時10分になったけれど彼は現れなかった。

彼も残業しているのかもしれない。

意外と時間に厳しい人で19時ちょうどに現れなかった私に愛想を尽かせて帰ってしまったのかもしれない。

「はぁ…」

彼を諦め、オフィスへ戻って仕事の続きをした。

モヤモヤとした気分で作業スピードは一気に落ちて幾つもミスをした。

気晴らしにチョコレート菓子を食べていたら例の先輩は帰り支度をしていた。

「私だけごめんね。お疲れ様です」

先輩は足早にオフィスを去った。

それから私が仕事を終えたのは19時50分。

不機嫌な顔をしているのが自分でもよく分かった。

ビルを出てもやっぱり彼の気配はなくて駅の方向へ足を進めた。

「桃川さん!」

1 2 3 4 5 6
RELATED NOVEL

POSTED COMMENT

  1. blank にゃんこ より:

    前回の笹尾さんに続き、男の子が下品でなくてストーリー全体に好感が持てます。こんな感じのまた待ってます!

COMMENT

メールアドレスが公開されることはありません。