「ごちそうさまでした……。今日も美味しかったです」
手を合わせた飯田君が食器を下げてくれる。
お客さんだからいいよ、と言っても、彼は食器洗いを譲らない。
その間に、私は食後のコーヒーを作る。
ちらりと時計を見上げる。おぉ、今日は完食まで一五分か。
彼はその間に三合の米とおかずを食べている。
「……飯田君さぁ、デカ盛りメニューとか挑戦しないの?テレビでよくチャレンジメニューとかやってるじゃん」
「……やったことはありますよ。会社の先輩に誘われて」
「へぇー飯田君ならなんでも楽勝なんじゃない?」
「そうでもないです」
洗い物を終えた飯田君はコーヒーをありがたそうに受け取る。
「美味しいって感じないと、そもそも箸が進みませんし」
「へぇー……じゃあ私が作るごはんは美味しい?」
「はい。とても」
直球すぎて照れることも忘れてしまう。
私はお気に入りの番組にチャンネルを合わせる。
このたるーっとした深夜番組が終わるとき、飯田君はちょうどコーヒーを飲み終わり、帰るのだ。
「あの、か、加奈子さんは、その、好きな食べ物は何ですか?」
「んんー……なんだろ。得意なのは煮込み料理だけどなぁ。わりと何でも食べられるんだよね。どうしたの?急に」
私は厳つすぎる自分の苗字を嫌っているので飯田君にも加奈子と呼んでもらっている。当初、恥ずかしいのか「あの」と声を掛けられることが多かったけれど、だんだん縮まっていく距離が嬉しい。
「お礼をさせてほしいんです。ずっとご馳走になりっぱなしですし」
「えぇーこないだもケーキ買ってきてくれたのに」
「それとこれとは別ですよ。来週、どうでしょうか」
「……」
思わず黙ってしまったのは、嫌だから、ではない。
あまりにスマートに誘ってくる飯田君が別人に見えたから。
誰か別の、男の人に見えて、怖くなったから。
「い、いいよ。来週ね。あいてる」
私はあわてて沈黙を破る。
飯田君はあいつとは違う。
だから、多分、大丈夫。
お礼だって言ってくれているんだ。
それ以上の他意はない、はず。
記憶ごと飲み込むつもりでコーヒーを口にした。
とっくに冷めたそれは、少し酸っぱい気がした。
「……あの、本当は来週言おうかと思っていたんですけれど」
急に改まった様子で飯田君が正座になった。
「転勤が決まりまして、来月引っ越すことになったんです」
「……え?」
「今まで大変お世話になりました」
私のナカで、何かがごっそり抜けたように冷たくなって、一方で、ストンと音がする。
そうか、だから、『お礼』なのか。
「そ、そっかぁ……それは……」
寂しいなぁ、なんて。
ただの隣人の私が口にしたら、気持ち悪いだろうか。
どうしよう。なんて言おう。
その瞬間、私が、彼の来る金曜日をどれほど楽しみにしていたのかが、全部感情になって溢れた気がした。
「それで、加奈子さん。僕と、付き合ってくれませんか」
「……はい?」
一間、二間と沈黙が下りる。
「それは、餌付け的な意味で?」
失礼を承知でおずおずと伺うと飯田君はがっくりと肩を落とした。
「……やっぱり、僕は餌付けされていたんですか」
「いやいやいや!そこまで失礼なことを露骨に思っていなかったよ?でもさ、ほら、なんていうか……私のどこがいいの?」
私に交際を申し込むようなポイントなんて料理しかなくない?と、我ながら悲しい自己分析の結果だ。うん、悲しいね。
「……料理だけで人の家に毎週上がるほど飢えてないです。小学生ですらもっと警戒心ありますよ」
「そ、そうですか」
考えなくてもそれが普通だ。
飯田君は私が思っているほど浮世離れした人ということではないらしい。
「最初に料理を頂いた時、もっと関わりたいと思ったのは認めます。雰囲気とか、空気感とか、日常的にもっと、同じ時間を過ごせたらいいなって……あなたがいれば、仕事も頑張れると思ったし、一週間を楽しみに過ごせた。僕はずっと、加奈子さんに癒されていたんです」
「……」
「それを理由に、あなたに傍にいてほしいなんて、甘ったれた考えではありますが、僕はもっと、責任を持って加奈子さんのことを知りたいです――自分のことを意図的に話そうとしてくれないのは、ただの隣人っていう距離感のせいですよね?」
私のナカに渦巻くのは。
飯田君が、意外と私のことをよく見ていてくれたという暖かさと。それを見透かす観察力への恐怖。
知られたくないのに、わかってほしい。
拒絶されたくないから、言いたくない。
私は、私をどうしたいのか、ぐちゃぐちゃと紐解けない。
どっちを選んでも、飯田君は隣からいなくなる。
ならばいっそ、打ち明けてみる……?