恋のはじまり

身体から始まることもある

和泉川いずみかわ、次、昨日の取引記録使うから準備よろしく」

「はい、承知致しました」

「この間の議事録ぎじろくも評判良かったし、和泉川は資料を作るのがうまいな。文章はもちろん、デザインも含めて」

「恐れ入ります」

「ところで俺たち、結婚しないか」

「は……い?」

 さくさくトントンと交わされたやりとりは料理番組の手順よろしく一切無駄のないもの、だったはずなのに。

(け、こん? 血痕けっこん? え、今どき血判けっぱん? いや待て、俺たちって言った?)

 はてなマークが頭の上で手を取り合って踊るがごとく。

突然舞い込んできたワードに私はしばしフリーズする。

「よかった。実はもう俺のらんは記入してある」

「あの、灰島はいじま課長? 今なんて……?」

「? 今夜すぐにでも婚姻届を提出したいって話だが?」

「いえ、そうではなくて、結婚って言いました?」

「言った。してくれるんだろう?」

 何を今更、と。

 平然かつ飄々ひょうひょうとされれば、何か間違えたことを口にしたのは自分だっただろうかと自信がなくなるが……

大丈夫。私は至って普通だ。

「申し訳ありませんが、私は結婚しません」

 ばさっ! と。

 手にしていた資料全てを落とし、この世の終わりのような顔をした課長。
………

………
(えぇー……この人、こんなに感情豊かだったけ?)

 どちらかと言うと、女子社員の黄色い悲鳴や露骨なアピールに一線を引く堅物かたぶつな印象だったのに。

 まぁ、そういうチャラチャラしていないところがまたカッコいいと人気があって、

私もそれには同感だったりする――が、それとこれとは別の話。

「……誰か心に決めた人がいるのか」

 血気迫る表情に割と普通に引いてしまう。

「いいえ。私は……結婚生活に希望が見出せないので、誰ともするつもりがないんです」

 課長には悪い気もするが、こればかりは仕方がない。

ていうか、課長が私をそういう目で見ていたなんて知らなかったので正直驚きを飛び越えて脳内はプチパニックだ。

「よかった。相手がいるんじゃないのか。いたらどうしてやろうかと……で、和泉川はどうして結婚生活に不安を感じるんだ?」

「あの、一応業務中では……?」

(え、断ったのにこの話続くの?)

「君も俺もサービス残業三週間目だろ。休憩を挟むのは当然だ」

 さぁ話せ、と催促するような視線。

 不躾ぶしつけでも真っ直ぐ過ぎるそれは断りづらく、何よりまがりなりにも求婚してくれた相手に不義理ふぎりは立てづらい。

「父が……なんと言うか、どうしようもなく自己中な人でして」

 思い返せば、それすらも馬鹿馬鹿しくなるほど、些細ささいなエピソードばかり。

一切を看過できない、当たり屋みたいな性格の父の顔を思い出すと、曇天どんてんの雲のように心にもやがはる。

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