最愛の母は死んだ。
母親の愛情をもって育っていた兄と比べる日々の彼、桐生健人がいる。
母の会社は父と兄で振り分けられて、健人は中途半端な位置にいる。
ある日、なぜか気になった女性ができた。
けどその人の恋人は、兄だった。
女は自分を選ばない。
そう思い込んで生きている健人だった。
なので名前は本当に好きな人以外には呼ばれたくない。
そんな、気持ちだった。
第一章:bossのブラックコーヒー
「っは…あ、ま、っ…」
この昼真っただ中で、みだらな声を出しているのは髪の毛がストレートで茶髪の女性。
相手の男性は自分の膝を固定して女性の膣付近にゴリゴリと押し当てている。
それに気持ちよくなる女性はどんどん高まっていく。
「もう…だめぇっ…もっと突いてください、健人さん…っ」
その瞬間だった。
突然興ざめした健人は膝も密着していた身体も放してしまった。
「健人さん?」
乱れた呼吸のまま、イケなかった女性は不思議そうに問いかけた。
すると健人は満面の笑みで女性に告げる。
「名前で呼ぶなんてなかなかな人だ。ごめんね、興味なくなったわ」
「!!??」
「じゃ、もしもこの先また機会があったらよろしくー」
健人は元気よく、この「視聴覚室」と呼ばれる暗黒な部屋から一人出て行った。
残された女性は泣きながら服を着ていた。
なんだか先ほどの笑顔の意味が分からず、むしろなんとなく恐怖を感じる。
これでよかったんだ、そう思い込んで気持ちにふたをした。
「あ、いたー。桐生専務!」
健人はその声に足を止めた。
「なんだ、古屋くんかー」
分厚い眼鏡に短すぎるというくらいのショートヘアの古屋あかね。
彼女は健人の直属部下であり、「仕事」「仕事」ばかりであまり健人はめんどくさがっている。
「なんだじゃありませんよ。まったく。仕事たまってるんです。戻りますよ!」
彼女には健人は手を出していない。
こういった行為をしていることは何一つ知らない。
第一、あかねは健人の中で対象になっていないからだ。
一応健人にも好みがあるからだ。
それは、今日までの話。
「なあ、古屋くん」
「はい?」
そそくさと歩いていくあかねの腕をつかみ壁にあかねの身体を思いきり突きつける。
「たまには息抜きする?」
「…」
その瞬間、あかねの目つきは鋭くなり、健人が気が付くと健人のお腹に蹴りを入れた。
「い!!!!!!!」
「さいてー。さすがに専務ほどの人なら選べますよ?けど私に言うなんて落ちぶれましたね」
不愛想な表情とともに、若干引いてしまったあかね。
「なんか…クリーンヒットだったけどなんか習ってた??」
「…まぁ」
それ以上は口をつむぎ歩き出した。
健人もあいまいな回答に不思議がりながらもあかねの後ろを歩いていく。
健人はあかねと一緒に自分たちの自席に座る。
健人の席は社長の左隣。
あかねは健人の席の左になる。
着席し、机にある山積みの書類を一つずつ開いて勤務モードになる健人。
その姿を見たあかねは安堵の息をついてから、手帳を見てはどこかに電話や書類の審査をしていた。
健人がふと、手を止める。
なんとなくのどが渇いて飲み物を立ち上がろうとすると、カチャっという音を立ててコップが置かれた。
誰かとみるとあかねだった。
そろそろか、と察して健人の好きなbossのブラックコーヒーをお気に入りの白のコップに入っている。
「先ほどはお腹、すみませんでした」
「いや…」
きょとんとなってしまう健人。
「なんでこれ」
「?いつも買っていますよね?」
「あーいつもきみに任せてたね」
「不思議な専務。熱は…」
おでこをいきなりつけてきた。
少しだけあかねの香水の香りが健人にすうっと入ってくる。
嫌いではない、香り。
どこか懐かしくさえ感じる。
「ありませんね」
おでこを離すとなんだかくすぐったくなる健人。
「なぁ古屋くん…」
「今回は私のおごりです。いつも奢っていただいているので」
「それは俺が上司だからだ」
「…なら、今度何かまた奢ってください」
そう話すあかねの顔は、今まで見たことのないような笑顔だった。
そう、健人はどこか少し、ほんと僅かだろうがあかねのその表情に欲情した。
あかねと二人きりなら抱きしめていただろう。
その日以降、どこか気になる存在になったあかねという彼女。
健人は眼鏡の奥を知りたくなった。