「こんにちは」
「こ、こんにちは、美優です。お邪魔してます…」
彼が向かいに座ると女性は先程と同様にお茶とお菓子を出し、そのまま奥の扉へと姿を消した。
「はじめまして、
「…はい」
嘘だ。
名前も年も聞いてはいない。
美優はこの時初めてこの人が私の婚約者なのだと知ったがそれをわざわざ言う必要はないと思った。
落ち着いて彼を見るとまだ若い。
とは言え高校を出たばかりの少女にとってスーツを着た大人の男性というのは随分年上に感じるものらしく彼女は緊張したように湯のみを握ったり目を泳がせたりと落ち着きのない様子を隠せなかった。
「あの…高貴さんはなんさい…いえ、おいくつですか?」
「高貴で結構です。私は22です」
「そうですか、私は18です」
「はい、知っています」
「そうですか…」
婚約者の事だもの、多少の事はしっているのが普通なんだろう、むしろ何も知らないほうがおかしいのだ。
母は何故もっと詳しく彼のことを、例えば名前や年、職業等を教えてくれなかったのだろうか。
「…あの、高貴さん…あ、高貴」
初対面の、それも年上の相手を敬称なく呼び捨てる違和感と罪悪感に美優は少し躊躇したが本人がそれで良いと言っているのだから気にする必要はないと自分に言い聞かせ彼女はそのまま言葉を続けた。
「いきなりで失礼かもしれませんが、お仕事とか…ええと、何をなさってる方なんですか?」
出来るだけ丁寧な言葉を選んだのだろう、見るからに恐る恐ると言った様子で聞いている。
「小説家…とは言い切れません。古書店を営んでいます…とても古い本の専門店と言ったらわかりやすいですかね」
彼の祖父は有名な文学者らしく彼も相当な本好きで毎日本に囲まれながら本人も執筆活動をしているのだという。
よくわからない、あまり興味が無いというのが彼女の本音だった。
「日中は家を空ける事が多いので普段の生活でのことは執事の緒方に聞いて下さいね。外出する時も勝手に出たりはせず彼に一言告げて下さい」
「はぁ、わかりました」
これはあまりに奇妙。
口では従順な返事をしても納得出来ないのが本音である。
これから生活を共にするであろう夫となる男性よりも初老の執事と過ごす時間のほうが長くコミュニケーションも密になるのでは、親が勝手に決めたことであるとはいえ夫婦として不自然だ。
しかしそうしろと言われてしまったのだから従うほかない。
「すみません、今日は午後からちょっとした仕事がありまして…」
そう言いながら立ち上がる彼につられて美優もさっと腰を上げる。
「部屋は用意してあります。あなたのトランクもそこに運ばせてあるので休んでて下さい」
「はい、ありがとうございます…あの、いってらっしゃい」
「いってきます」
いってらっしゃい、いってきます…ようやく夫婦らしい会話ができた気がする、と美優は心の中で静かにほっと息を漏らし彼の背中を見送った。
その直後に、やはり玄関まで言って見送りの言葉を掛けるべきだったと思い直し居間を飛び出す。
急ぎ足で重厚感のある茶色い木の扉を抜けて廊下へ出ると玄関先でスーツの背中を丸めて靴を履く高貴の姿があった。
「…美優さん、どうかしましたか?」
「玄関で、いってらっしゃいって言おうと思って」
「ありがとうございます、それでは、いってきますね」
「はい!いってらっしゃい!」
そんな出逢いから3,4週間はたっただろうか奇妙な結婚生活は案外スムーズに進んでいる。
互いに互いの性格や行動をわかり始めたし最初は軋む階段のようだったコミュニケーションも次第に窮屈さを消していた。
脳天気な若い少女と本の虫で女性に慣れていない男の恋、その影に執事の緒方の努力と配慮があったことを二人が知っているかは不明だが…。