恋のはじまり

ジムの彼

「だいぶ筋肉ついてきたかな……」

ジムの更衣室、鏡で自分の身体を眺めながら、山崎千香子やまざき ちかこは一人呟いた。

千香子が3か月前から通い始めた会員制のジムはまだ出来たばかりで、広い更衣室にはいくつもシャワー室が設置され、広々としたメイク用の空間まである。

朝から夜まで仕事をして、定時に上がれた日にはジムへ来て汗を流す――それが、ここ最近できたルーチンの流れだった。

筋トレマシーンとランニングマシーン、それからスケジュールが合えばヨガのクラスにも参加する。

最初は面倒臭さに負けそうになったこともあったが、今ではすっかり生活の一部になっていた。

「俺さあ……もっと女の子らしい子が好きなんだよね、最近の千香子、なんか違うんだよな……」

1年付き合った男からそう言われたのが、ジムへ通うきっかけだった。

転職して忙しい仕事になり、以前は余裕があっておっとりしていた雰囲気が少し変わったのかもしれない。

確かに付き合い始めたころよりは強い雰囲気をまとうようにはなったが――そんなことを言う男なんてこちらから願い下げだと、別れたのが3か月前だ。

そんなことを言う男に今後一切かかわりたくもない!

そう思った千香子が選んだのが、このジムだった。

見た目からして強い女になってやる、もはや半分やけくそのように身体を鍛え始めたのだが、だんだんと変わっていく自分の姿が楽しくて、千香子はトレーニングにすっかりはまってしまっていた。

そして、自分の身体の変化にしたがって、他人の筋肉も気になるようになった。

以前まではそんなことなかったのに、今や見知らぬ人を見てもまず最初に身体つきをチェックしてしまう――。

そんな千香子が気になっている男性が一人、このジムにいる。

話したこともない、千香子と同じようにジムに通っている男性だった。

優しそうな顔つきで、髪は黒くて清潔感がある。

おそらく大勢の人間に紛れたらすぐにわからなくなってしまうような、いわゆる普通の男性だ。

しかし、そんな印象とは裏腹に、体幹の強そうな身のこなしと胸板の厚み、シャツの上から感じられる背筋の形についつい目が行ってしまい、ジムに来ると無意識に彼の姿を探してしまう。

あの筋肉に触れたら、どんな感触がするんだろう――そんなことを考えては、なんということを考えているのだと自嘲する。

直接話しかけてもみたいが、同じジムに通っているといってもそれ以外に一切の接点はない。

トレーニング中に話しかけられたら迷惑だろうし、それで相手にその気がなければ今後ジムにも来にくくなってしまう――そんなことを思うと、ただ目で追うしかできない日々が続いていた。

そんなある日のことだった。

「山崎さん、お疲れ様です!トレーニング、続いてますね!」

「お疲れ様です、ふふ、ありがとうございます♪」

ストレッチをしている千香子に声をかけてきたのは、千香子が初めて来た日にマシーンの使い方を教えてくれたジムのスタッフだった。

「筋肉もついてきましたね!次の測定結果、出たら見せてくださいね!ところで…山崎さんって、平日お仕事で土日休みですよね?実は来月の日曜日に、ジムのお楽しみ会をするんです、と言っても普通に飲み会、みたいな感じなんですけど」

「お楽しみ会、ですか?」

「そう、半年に一回くらいやってるんです♪常連の方を呼んで、交流をする、みたいな感じで……ジムに来られる方ってみんなトレーニングが趣味だったりするので、結構話もあって盛り上がるんですよ!山崎さんもどうですか?」

「え、そうなんだー……」

それはもしかすると、例の彼も参加するのかもしれない……そう思うと、千香子は二つ返事で頷いていた。

「よかったー、じゃあ、詳しいことはまた連絡しますね!」

「ええ、楽しみにしてます!」

誰が参加するのか、なんてことは流石に聞けなかった。

しかし、もしかすると彼と話せるかもしれない――もしいなくても、他の人と仲良くなれるなら悪いことはないだろう。

そう思うと胸がわくわくして、千香子は終えたばかりのランニングマシーンに戻り、上がったテンションをぶつけるようにして走り始めた――。

「お楽しみ会」の日、指定された場所は居酒屋だった。

大きなお座敷のスペースに通され、いたのは大体20人弱といったところだろうか。

20代から40代ほどの男女がひしめき合ったその空間に、千香子の気になっている彼は、いた。

来た順番に奥から座っていくスタイルだったようで、千香子が来たときにはすでに彼の両隣には人がいて、同じ卓には座れなかった。

「乾杯!」

の合図で始まった飲み会だったが、とても楽しい時間となった。

1つのテーブルに1人のジムのスタッフがついていてくれて、お互い話したことがない同時の人間をうまく盛り上げてくれる――皆共通の趣味もあり、話ははずんだ。

同じ席に座っていたのは千香子のほかに女性が二人と男性が二人で、きっと今後ジムであったら、雑談して楽しめるであろうくらいの距離感になっていた。

(あの人と同じ机だったらこのくらい仲良くなれたのかあ……)

楽しい時間ではあったが、もしこれが彼とだったら……と思うとつい残念な気持ちになってしまう。

予定されていた二時間の飲み会はあっという間に終了し、結局彼とは話せずに終わってしまいそうだった。

あーあ、と気を落とした、そんな時だった。

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