恋のはじまり

餌付け懐かれ

飯田君と知り合ったのは三か月前。

飯田君が通勤カバンとスーパーの袋をぶら下げて扉に苦戦しているところに私が通りかかった。

エントランスやエレベーター、ゴミ捨て場で顔を合わせたら会釈程度の付き合いだったのに、その日はつい、私から声をかけてしまった。

「お疲れ様です。断水、明日の朝まで続くそうですよ。嫌になっちゃいますよねぇ」

「……え?」

飯田君は衝撃の事実という表情で私を見つめる。

「だ、断水って、え、今日、ですか……?」

「はい。本当は今日の午後に終わる予定だったらしいんですが、なんだか長引いたらしくて……」

その様子だと断水のことすら知らなかったようだ。

しばし呆然とする飯田君。

しかしその手元は依然扉の開閉に努めていて、やっとがちゃりと鍵が噛みあう。

「随分頑固な玄関扉ですね」

「はぁ……いつもお騒がせしてすみません。その、うるさいですよね……」

えぇまぁ、はい。ともいうわけにいかないので「いえいえお気になさらず」と社交辞令で流す。

ふと、飯田君の手元の袋を見れば、カップ麺やインスタント食品が覗いている。

もしやこれが夕飯の予定だとしたら、なんたるタイミングの悪さ。

「あの、水、足りてますか?もしよかったら2リットルボトルうちにありますけど……」

「え!いや、そんな!」

悪いですよ、と遠慮する飯田君の返事は、彼自身の腹の虫がかき消す。

あまりの音に、この人餓死寸前なのか?と思ってしまった。

びっくりした私と、恥ずかしそうに顔を赤らめる飯田君の視線がぶつかる。

「ふふっ……あはははっ!遠慮しないでください。困ったときはお互い様ですよ!」

私は自室へ戻ると、2リットルボトルの水と、ついでに冷蔵庫に作りおいておいたおかずのタッパーを手にした。

待たせたままの飯田君に「はい」と突き出す。

「これ、もしよかったらどうぞ。他人の手作りとか、抵抗ありますか?」

一応聞いてみると食い気味に「ありません」と言われた。

「あの、ほんとにありがとうございます。ずっとコンビニ弁当とかカップ麺生活が続いてて……タッパー洗って返すんで、その、美味しく頂きます!」

一瞬、あっけにとられる。

遠慮が飢えに負けている。私の何かがくすぐられた。

「どうぞ。お口に合えばまた差し上げますよ」

前の彼氏と別れてから、随分長い間人に料理をふるまっていない。

できれば目の前で食べてほしかったな、なんて無茶なことを思って、その時は別れたのだ。

――その三日後の金曜日。

タッパーを返しに来た彼が、「美味しかったです。すごく……っ」とわざわざ言いに来てくれたことで、「じゃあ今日はうちで食べてく?」と冗談交じりに返した言葉が、今日の今日まで続くことになるなんて、その時は考えもしなかった。

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