「……初めて聞いてくれたな」
「は?」
「俺のこと。お前、今日一度も知ろうともしなかっただろ。どこに就職したとか、結婚しているのか、とか」
そういえば、そうだ。
あ、と声を漏らした私に、カズ君はため息をつく。
「ほんとに、お前は俺に興味がないよな」
ぎゅっと、しがみ付くように力がこもる。
「……彼女もいないし、結婚もしてない。お前は?『いない』でいいんだよな?」
「まぁこんなブス相手にされないよねぇ」
「それ、やめろよ」
腕に力がこもる。
「自虐なら痛々しすぎる」
顔は見えない。でも、苛立っているのは肌でわかる。
「カズ君がそれ言うんだ?」
思わず笑ってしまった。
別に何の気ないつもりだった。
体に回された腕の力が抜ける。
拘束から抜け出すなら今しかない。
それなのに、私は腕を振り払うことができなかった。
久々に他人と触れ合う温度に酔わされたからじゃない。
「なんで……」
暗闇の中で、彼が泣いている気配を感じたからだ。
「泣いてるの?」
彼の頬に触れると、その雫で指先が濡れた。
「謝っても、遅すぎることくらいわかっていた。……そもそも許されたいわけじゃない。でも、言わせてほしい。……ごめん、なっちゃん」
ぽたり、ぽたりと滑る雫が、雨のように伝う。
「本気でブスだなんて思ったこと、一度もない。思春期になるにつれ、いろんな思いがぐちゃまぜになって、からかわれるのが嫌で、なっちゃんって呼べなくなって、普通に話しかけることができなくなって、それなのに、
体を起こした彼が、私に覆いかぶさる。
逃がさないとばかりに、きつく抱きしめられ、私は押し付けられた心臓の速さを感じた。
「奈津の家がごたごたしているのも知っていたのに、なんの助けにもなれなくて、ごめん。周りに同調して、蔑ろにしてごめん。全部後悔してる。傍にいられるときに、大切にしてあげられなかったこと」
髪を撫でられたとき、じんわりと心がほぐれたのを感じた。
私はあの時、彼に傷つけられた。
そして、言葉も交わさないまま逃げた。
だから、その間、彼を傷つけ続けたのだろう。
「ねぇカズ君。やり直し、したい?」
私はそっと彼の背中を撫でる。
体がびくりとはねた。
「私たちが、お互いを傷つけあう前の自分に、戻れるように」
「……いいのか、そんなの。俺に都合が良すぎるだろ」
「いいんじゃないかな。かわりに私は謝らないから。あなたの前から消えたこと。あなたの知らない時代の私がいることも」
私はわざと少し意地悪に言った。
彼の性格はよくわかっている。
独占欲が強い彼にとって、埋まらない過去は苦味しかないだろう。
案の定悔しそうに目をそらす。
「……電気、つけていいよな」
壁時計が二時を告げた。
明日のことを思うとげんなりするが、視線がぶつかると、どちらからともなく笑みがこぼれた。
「あぁクソ……やっとここまで来られたのに」
「え、なに?」
カズ君の何かを我慢した表情に小首を傾げる。
「……触っていいか」
豆電球の薄暗さでもわかるほど、彼の頬は赤い。
だめ、と言ったらきっと我慢してくれるのだろう。
彼が我慢をして、選択をゆだねてくれたことが嬉しくて、自然と頬が緩む。
「今更、じゃないかな」
返事の代わりに私は彼の掌に自分の頬をすり寄せた。
「私、一度も抵抗していないよ?」
そっとほほ笑むと、カズ君は泣きそうになり、そしてそっと唇を合わせた。
「ん……」
互いの体温を薄い皮膚ごしに感じる。
少しかさついた唇が、そっと顔を出した舌が、ゆっくりと交わされ、味わうように、重なる。
「ずっと、こうしたかったんだ。ずっと……!」