恋のはじまり

誰もいないオフィスで…

いつの間にか時計は、午後10時を回っていた。

せっかくのノー残業デーだったというのに、亜希子あきこのパソコンにはまだ今日終えなければならない仕事が詰まっている。

人がいるのは亜希子のデスクのみで、他はすでに誰もいなかった。

ほとんどの灯が消えてシンとしたオフィスに、亜希子のタイピングの音だけがカタカタと響いている。

はあ、とため息をついて、亜希子は眉間をつまんだ。

入社して8年目、30歳になる亜希子はいつの間にか会社でも中堅になっていて、様々な業務がひっきりなしにやってくる。

頼られるのは嬉しいが、それが結局このような残業を引き起こしていると思うと…

(なんだか、疲れちゃったなあ…)

亜希子がそう思った時、背後から物音がした。

ぱっと振り向くと、誰もいなかったはずのオフィスに人影がある。

「あれ、亜希子先輩、まだ残ってるんですか?」

蒼士そうし君こそ……」

平均より少しばかり背が高い、細見の男性が立っていた。

彼は亜希子より3年後輩の、別の部署の社員だ。

クールに見えるが実は人懐っこく、笑顔がかわいいと影では人気のある青年で、亜希子も少しだけ気になっている相手だった。

「いえ、僕は接待があって…終わって、忘れ物取りに戻ってきたんですよ」

「そうなんだ、それはお疲れ様、営業も大変だね」

「ありがとうございます。亜希子先輩は…残業ですか?」

「そう、折角のノー残業デーなのに困っちゃうでしょ」

そう言って笑う亜希子に、蒼士は困ったように笑った。

「先輩が仕事出来るから、みんな先輩に頼んじゃうんですよね…何か手伝いましょうか?」

「ううん、大丈夫」

「そうですか…あ、それじゃあ」

蒼士が亜希子の椅子の後ろに回り込む。

亜希子の背後から、蒼士の手が伸びた。

「わ、先輩、凝ってますね」

そう言って、亜希子の固くなった肩を、蒼士の手が優しくもみはじめた。

大きくて暖かいてのひらの熱が、亜希子のワイシャツを通してじんわりと伝わってくる。

く、と押されるたびに筋肉がじんわりと熱を帯び、その気持ちよさに亜希子はほう、と息を吐いた。

「気持ちいー…って私、なんだか年取ったみたい、後輩に肩揉まれるとか」

冗談めかして言った言葉に、蒼士がふふ、と笑う。

「肩凝りに年齢なんて関係ないですよ」

「それもそっか、じゃあもう少しお願いします」

「はい、かしこまりました」

蒼士の態度に嬉しくなって、されるがままに亜希子は力を抜いた。

男性の手に身体をもみほぐされるのは、少し気恥しい気もするがが気持ちがいい。

女性の手とは違う感触に少しだけドキリとするが、何を考えているんだと自分で思考を打ち消した。

「…え?」

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