「あぁー……疲れているのにぃ……」
しっかり残業までこなして午後八時。
私に待ち受けていたのは、帰りもまた満員電車。
アナウンスによるとどうやら事故があったらしく、普段は帰宅ラッシュも落ち着くこの時間に人が集中してしまったようだ。
(うわ……朝よりやばいかも……)
覚悟を決めて乗り込んだのはいいけれど……朝と違って汗やアルコールの臭いが鼻にくる。ひといきれの苦しさが比ではない。
しかも、男の人に囲まれてしまい威圧感もすごい。
げんなりしたそのときだ。
「ひゃっ……!」
なにかが、するりとスカートの間に入ってきた。
押し潰されないように脚を少し開いていたせいで、内腿に滑り込んできたそれの侵入を拒めない。
(うそ……痴漢?この満員電車の中で?)
慌てて足を閉じるも、無遠慮な手はこじ開けるようにお尻のくぼみの方へ伸びてくる。
(やだ!気持ち悪い!)
逃げようにも身動きがとれない。
それでも身を
――ビッ……ビリッ!
(なに……?まさか!)
荒々しく這いまわる手が二本になった。
ストッキングのクロッチを思いっきり引っ張られる。
ビリィっ!ともバツン!とも似た鈍い音がする。
同時に、内腿に引っかかれたような痛みが走った。
ひたりと当てられた冷たい物……十中八九刃物で間違いない。
柔らかい皮膚をくすぐるように、鋭利なそれが肌を滑る。
「抵抗するなよ」
背後からの声……生ぬるい息に肌を撫でられ、身の毛がよだつ。
痴漢は私の耳に息を吹きかけ、首筋を舐めた。
濡れた獣のような生々しい匂いに胃が
(どうしよう……誰か、誰か!)
暴れる心臓を懸命に抑えて、ぎゅっと身を固めた時だ。
「何してんだよ!」
頭上から怒気を
顔を上げるより早く、誰かが私を正面から抱き込む。
そして私の後ろに立つそいつに掴みかかった。
「あ……」
この匂い……。
いつもの、落ち着くような甘くて優しい、でも汗を含んだ濃い匂い……間違いない。
彼が私を抱きしめている。
「な、なんだお前!突然しゃしゃり出やがって!」
痴漢男は彼の手を振り払おうともがく。
誰かが男の握る刃物の存在に気が付き悲鳴を上げた。
「てめぇが一番よくわかってんだろうがよ!」
彼は私を護るように背後に回らせる。
痴漢男は彼の拘束から逃れようと刃物を振り回した。
「危ない!」
私が叫ぶより早く、彼は踏み出し、襟を締め上げ鼻面に強烈な頭突きを食らわせた。
肉が潰れたような音がして男は顔面を抱えて
指の間から見えた様子だと、顔面は血まみれだった。
「……痛ってぇ……誰かこいつを逃げないように囲んでもらえますかね」
彼は自分の頭部をさすりつつ、周囲の人に話しかけた。
そして再びしっかりと私の手を握る。
「あ……」
何か言わなきゃ、と思うのに。
言葉が上手く形成されない。
汗ばんだ手を握り返したいのに、指が動かない。
そこでやっと、私は自分が震えていることに気が付いた。
彼の微熱で、恐怖心と安堵がどろどろに溶け合い、自然と涙が溢れる。
少し間があって、唖然としていた人たちは血塗れの痴漢男を取り押さえてくれた。
私を慰める声もあったけれど、ほとんど聞き取れない。
到着した駅で駅員さんに引き渡すまで、私はずっと彼にしがみついていた。