ひとりエッチ

忘れられない思い出

8時間目の授業が終わって教室は騒々しくなった。

私は微かに溜息をして重く痺れた瞼を擦り擦りして、チョークの白い文字が二重に霞んだ黒板をぼんやりと眺めていた。

そして又溜息をすると、机の上に雑然と広がるノートを見た。

そこには何やら訳のわからぬ数式やら赤ペンで記された単語がゴチャゴチャと並べられてあった。

デュロンープティの法則、熱力学の第2法則、理想気体の断熱変化の式の証明、、ああ、もう面倒臭い!こんなのが試験に出るなんて絶対に単位取れる自信ないわぁ。

私はまた溜息をついて、消しカスやらがちりばめられた汚いノートの上に両腕を組んで突っ伏つっぷした。

とにかく眠い!ただ帰る支度するのも面倒臭くてダルい。

私は顔を横に向けて窓外の見慣れた陳腐な景色を見た。

空模様は怪しく、気分がどんよりと重くなるような灰色の雲が暗澹あんたんと動いていた。雨は降っていない。

教室から人は少なくなったが、それでも下品な笑い声が響き渡っていて、益々心が沈んでしまう。

私は窓に向けていた顔を懐に隠すと、先程のように眉骨を腕の骨に押し付けて目を瞑った。こうすると、目の疲れがスーッと消えて頭を流れる不活発な暗い血が、闇夜の黒い静かな海のように、勢いは相変わらず足りないが、快い波音をたてるのであった。それは何とも言い知れぬ心地良さがあって気持ち良かった。

不図私は何者かに肩を叩かれた。

大きな体をゆっくりと持ち上げてその方に顔を向けると、池内涼太が不思議そうな目でこちらを覗き込んでいた。

一瞬顔と顔の距離が近くなって反射的に体を引くと、私は彼の端正な顔をおぼろげな意識の下に眺めていた。

黒く綺麗な長い前髪は眉の上でクイッと左に流れて、両脇と裾は短く刈り込まれている、如何にも邪魔臭いと感じる髪型をしていて、それでもその下にはまるで神様の繊細な手先で彫り込まれたように巧緻な顔があった。

とりわけ2つの大きな目は、清らかで美しかった。

「ねぇ、佐々木さんさ、今日暇?」

私はそれを聞いてやっと目が覚めると、急に顔が熱くなった。

質問の意味が全くわからなかった。

何故そんな事を私に聞くだろうか?

私は益々熱くなった。

恥ずかしかった。

「ど、どうかしたの?」

私ははにかみながら、小さく消え入るような声で聞いた。

今までの淀んだ暗い私の血は、激しく全身を迸るように駆け巡りだした。

鼓動のドクンドクンという音が心臓の周りにある肉に響いていた。

「今日さ、みんなで映画観に行こうと思っててさ、どう?」

どう?!何で私を誘おうと思ったの!別に映画に行くのは構わないけど入学してから今日まで私達まともに話した事が無いじゃない。それなのに、何で?

「な、何観るの?」

「え、わからん。行ってから決める」

はぁ!?ほんとに意味分からない。

「ごめん、今日はちょっとあれだからさ、」

「用事あるの?」

「え、うん、まぁね」

「そうかぁ、じゃあしょうがないね」

勿論嘘だ。

私は彼からかわれているような気がして、段々腹が立ってきた。

彼はこちらに背を向けて、しかし直ぐに振り返って来て

「あ、佐々木さんLINEやってるよね?交換しない?」

と聞いた。

「え、まぁ良いけど」

私はまた恥ずかしくなった。

先程までの彼に対する苛立ちは嘘のようにすんなりと消えて、心が踊り上がるのを感じた。

素直に私は嬉しかった。

スマホを取り出した。

彼もスマホを取り出すと、素早くLINEのQRコードを表示させて私の机の上に置いた。

しかし私はもじもじしてLINEの画面をひたすらいじっていた。やり方を知らなかったのである。

LINEをした事が無いわけではなかったけれど、友達が少なく部活も入っていなかったので記憶が覚束おぼつかなく、さっぱりわからなかった。

彼は不思議そうにこちらを凝視していた。

彼には遠慮という言葉がないらしい。

彼は常に人に対して鋭い眼差しを向けて、何か気になる事があると何の気兼ねなしに無鉄砲に話し掛け、又気紛れでもあって、そのような点が特に大人達から嫌われていたが、それでも悪い人間でも無かったので、常に数人のクラスメイトやらとはしゃいでいた。

女性からも相当モテていたに違いない。

「どうした?」

こう聞いて来てグッと体を私の方に寄せた。

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