恋のはじまり

となりに引っ越してきた隣人が…

しかし

「ねぇねぇ花ちゃん。ネタが思いつかないのは僕の生活に癒しがないからだと思うんだよねぇ。花ちゃんがちょーっと協力してくれるだけで、いいものが描けそうな気もするんだよねぇ」

実際の仕事の大半は、この甘えたなおっさん(三十歳)の尻を叩き、サボらないように監視する業務である。

「……具体的に何をしてほしいんですか」

「あれ?聞いてくれるの?」

「聞くだけです。このままだとらちが明かないので」

「してほしいことはいくらでもあるけどね。一番は……膝枕かなぁ」

「セクハラで訴えますね」

「確定事項!いやいや、僕前から言ってるじゃん。僕のお嫁さんになってほしいなーって。夫婦で膝枕は普通でしょ?」

「……百歩譲ってプロポーズが前提であっても、下心を包みも隠しもしないのはどうかと」

「膝枕がダメなら、せめてハグで!」

妥協してあげよう、と言わんばかりに両手を広げている。

あぁもう、と頭を抱えた。

綾部先生の仕事したくない病はいつものこととして、今日はより一層集中力が死んでいる。

(一度波に乗ればこっちのものなんだけれどな……)

スイッチが入るのが著しく遅い分、ONの綾部先生は仕事の鬼となる。

前回なんて五時間机に噛り付き、仕上がるまで動かなかったくらいだ。

(どうしよう。何か、綾部先生のスイッチを押すもの……)

馬ニンジンの法則ではないが、仕方がない。

「綾部先生。私とゲームをしませんか?」

私は机に抱き着いたままの先生の手をとり、にっこりとほほ笑む。

「ゲーム?なになに?遊んでくれるの?」

子供か!とつっこみたくなる反応に内心細く笑み、「えぇ」と続けた。

「今日の日付が変わるまでに、読み切り用のネームを完成させてください。それができたら、明後日アシさんが来るまで私は先生の言うことをなんでも聞きます」

ネーム……つまり絵コンテだ。

漫画を描く作業において、多くの時間を要する業務であり、それを苦手とする漫画家は多い。

綾部先生も例外ではない。

話の構想すら決まっていない現段階。

残り11時間で30ページのネームを作るなど通常状態の綾部先生ではまず難しい。

しかし

「――花ちゃん。今、『なんでも』って言ったよね?」

がしっと私の両肩を掴んだ綾部先生の眼はマジだった。……ちょっと引くくらいに。

しかし、背に腹は代えられない。

私はきっぱり言い切る。

「はい。『明後日までなんでも』です。膝枕でも、ハグでも、この前お願いされたメイド服でもなんでも叶えましょう。その代わりできなかったら……」

「あ、できないなんてこと絶対ないから。後……11時間切っちゃうか。うん。集中するから花ちゃんはもう帰っていいよ。今日中にそっちに行くから。じゃあね」

ぽかんと口を開ける間もなく――背筋を伸ばした綾部先生はペンを握った。

 

その集中の入り方は、それこそ私が望んでいた姿だけれど……。

「こわ……」

身震いせずにはいられなかった。

邪魔するわけにもいかないので部屋を後にし――頭を抱えた。

「やばい……。私、絶対積んだ」

 

そして、「できないなんてこと絶対ない」の宣言通り、彼は十時間後に私の部屋のチャイムを鳴らしたのだ。

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