「……はぁ」
私はこっそりと息を吐く。
四方八方からぎゅうぎゅうと押される朝の通勤ラッシュは私のライフゲージを容赦なく削る。
……それが憂鬱だったのは、最近までの話。
一つの楽しみを見出してしまった私は高鳴る鼓動を抑えつつ、目の前の彼に気が付かれないように
真っ白なシャツを着たその大きな背中……すし詰めに近い車内だから、身体が密着しないようにするだけでも一苦労だ。
肩……できればうなじに届きたい、頭一つ分以上ある身長差はどうやっても埋まらないのがもどかしい。
注意を払いながらも、大胆に――私はそっと匂いを嗅いだ。
柔軟剤とも香水とも違う、落ち着くような、そわそわするような――男の人の匂いが鼻腔をくすぐる。
指先が、胸が、じんわりと火照り、酔ったようにくらりとした。
(もっと……もっとこの匂いで満たされたい……)
人いきれにうんざりしていたことなんて思い出せなくなるくらい、全身が甘く
私、カナは、ずっと真面目で平凡なOL――だったのに。
通勤電車の中で、名前も知らない男性の匂いを嗅ぐのが癒しという、アブノーマルな癖に目覚めてしまった。
(……うぅ……我ながら変態……てか、これ一種の痴漢だよね?)
罪悪感に
――毎日蟻のように真面目にせこせこ働いているんだから、少しくらいご褒美があってもいいよね……?
なんて、自分に甘くなってしまうのだ。
欲を言えば、私が彼を意識したあの日……朝の通勤ラッシュの中、突然の急減速の衝撃で、転びそうになった私を抱きとめてくれたときのように、力強いあの腕でもう一度抱いてほしい。
慌てふためく私を落ち着かせるために、ごつごつと武骨な
そしてできればその先も……?
(いやいやいやいや!朝から何考えているのよ!)
慌てて意識を取り戻す。
自覚してしまうときりがないもので、最近はもっぱら彼とのあれこれを妄想してしまう。
事故に見せかけて腕の中に飛び込む……のはさすがに理性が邪魔をした。
最初は純粋にお礼をちゃんと言おうと思っていたのだ。
頭一つ背が高い彼を見つけるのは容易だった。
どちらかというと強面な印象で、わりとスーツを着崩していることが多い。
多分、私と同じ二六歳くらいだろう。
でも、見つけたところで近寄ることが難しいのだ。
なんとか傍に来られても、気恥ずかしいのと、車内で話しかけることに気が引けてしまう。
そんなことをずっと繰り返して今日の今日とて言いそびれている。
ちなみに私の方が後に乗車し、早く下車するので彼の情報はまるで掴めていない。
(あぁ、今日も痴漢みたいなことをしてゴメンナサイ……でも私の一日の癒しなの……)
心の中で謝罪しつつ、名残惜しくも電車を後にした。