僕は彼女の肩を一度ぽん、とたたいてから話しかけた。
「根を詰めすぎるとよくないよ」
「あ、ありがとうございます。でももう終わるので」
「無理せずにね、僕も手伝うから」
オフィスに残っているのは、僕と彼女だけ。
今日は月末の金曜日。
繁忙期でもない今、仕事はそこまで忙しくない。
みんな仕事を早々に片付けて、さっさと帰ってしまった。
僕も仕事自体は終わっている。けれど、いろいろ理由をつけて残ってしまった。
それもひとえに彼女、高橋さんのことが心配だったからだ。
三つ年下の彼女は、いつも頑張っている。
いつも残業して、夜遅くまでいる、とかではない。
むしろ逆だ。
彼女はいつも大体定時で帰る。
白い細縁のメガネがよく似合う彼女は、その誠実そうな姿勢にたがわぬ手際で仕事に臨んでいた。
仕事は定時までに片付ける。
手を抜くことなく、誠実に、きっちりと。
しかし今日はなぜか残業しているのだ。
今日の彼女はなんとなく、仕事に身が入っていないように見えた。
ここ最近、その兆候はあったけれど、今日はそれが顕著だったように思う。
それがとても、気になったのだ。だから僕は、こうして残っているのである。
「珍しいね、高橋さんが残業なんて」
「ちょっと、今日は集中できなくて」
「何かあったの?」
「あ、いや……」
「話しにくいことだったらいいんだけど」
「そう、じゃなくて」
彼女は作業する手を止めて、僕の方を向き直った。
僕は、彼女の隣のデスクの椅子に腰かけた。
「実は、佐藤さんに話があって」
「僕に話?」
急に改まって名前を呼ばれた僕(僕の名前は佐藤浩太郎という)は、心臓が大きく震えるのを抑えることができなかった。
もし、心臓が随意筋で動いていたとしても、その動きを止めることは難しかったと思う。
「あの、佐藤さんって付き合っていらっしゃる方とか、おられませんよね」
「う、うん。いないけれど」
「そ、それじゃ、好きな人、とかはいらっしゃいますか?」
どきり。また心臓が震えた。今度はその震えが止まらない。
どきり、どきり。心臓から力強く送り出された血液が、体の末端まで行き届いていることが分かった。
僕の根幹ともいえる部分にも、その血液は十全に送り届けられ、次第にみなぎっていくことを感じてしまった。
「いる、けれど」
「そう、ですか」
「僕の好きな人はね」
沈黙。
空調の音。
パソコンの駆動音。
椅子のきしむ音。
風が窓をたたく音。
そして、僕体を脈打ついななき。
「高橋さん、なんだ」
彼女が息をのむ声。声にならない、声。
「ほんと、ですか」
うつむく彼女の声はかすれていて、きっと周りがこれほどの静寂に包まれていなかったら、聞き取れなかっただろうと思う。
「ほんとに、私のこと、好き、なんですか」
僕は一度、頷いた。
「ほんと、ですか。喜んで、いいんですか」
「嘘はつかないよ」
どちらからともなく、僕らはキスをした。