「皆様ご宿泊ありがとうございました。この民宿は今年で閉じますが、長年のご愛顧感謝しております」
女将さんが私たちマラソン同好会の面々に、御礼の言葉とともにお辞儀をする。
別れを惜しみながらも、皆それぞれが女将さんに感謝の言葉を述べた。
その後迎えのバスが来るまでの間、ロビーで談笑を始めた友人たちの目を盗み、私はこっそりと女将さんに話しかける。
「あの、女将さん!」
「あらあら、瑞希ちゃん。昨夜は一人で二階で寝てたんですって?お友だちの寝相がひどかったって聞いたわ。言ってくれればお布団を出したのに、寒かったでしょう」
「あ……いえ、大丈夫です!気がついたらこの浴衣掛けてもらってましたし。宿のですよね?お返しします、ありがとうございました。それで、あの、今日は息子さんは……」
「浴衣?今うちには浴衣の用意はないんだけど……。あら、これ、創業当時に使っていた浴衣の柄だわ。どこかに残っていたのかしら」
女将さんは首を傾げながら浴衣を受け取ると、私の顔を見てぱちくりと瞳を瞬かせた。
「うちの放蕩息子?息子は何年も前から東京にいるわよ」
「え」
そんな、だって――。
口を開こうとした時、バスの到着を告げるクラクションが背後で響いた。
「それじゃあ、元気でね瑞希ちゃん。私も息子に会いに東京へ行く機会があるから、よかったらその時お茶でもしましょう」
「は、はい、女将さん」
目を潤ませながらニコニコしている女将さんは、嘘をついているようにも、何か勘違いしているようにも見えない。
混乱しつつも、友だちに促されてバスへ向かおうとしたその時、宿を出る、一歩手前、背後から。
「聞いての通り、この民宿閉めることになってさ。引越し先を探してたんだよね」
勢いよく背後を振り向くと、そこには浴衣を着た大河さんが立っていた。
「創業者として見守ってきたけど、お役御免ってわけ」
大河さんはにやりと笑って私を背後から抱きしめ、両腕を胸の前でクロスさせる。
心なしかその肌はひんやりとしていた。
「東京かぁ。きっと百年前とは様変わりしているんだろうね、楽しみだ。あ、そうそう、瑞希ちゃんにお祝いを言おうと思ってたんだ」
「お、お祝い……?」
先程から背中がぞくぞくして仕方がない。
だって、まさか。
「取り憑かれてるんだろ?おめでとう。――本当になって良かったね」
不思議そうな顔をして私を見ている女将も、友人たちも、明らかに大河さんのことが見えていない。
私は恐る恐る、女将さんに問いかけた。
「女将さん、創業者さんのお名前って……」
「創業者の?大河さんよ」
たたらを踏んだ私を、大河さんはにこにこしながら見下ろしている。
その表情からは確かに女将との血の繋がりが伺えた。
この状況で私に言えることは――たった一つである。
「まぁ……好きだからいっか」
それを聞いて、幽霊であるところの彼氏は、呆れ半分心配半分の表情で、私にキスをした。