「おはようございます、牧野君かな?」
「おはようございます、宜しくお願いします」
「ちょっと地図を見してもらって良い?」
私は彼から、今日の彼の配る範囲の地図を受け取った。
彼はまだ運転免許を持っていなかったので、シフトが一緒になったポスティングやドライバーの人にその地図の所まで送って貰っていた。
「ああ、私の配る所と隣だね、じゃあ、この公園で良いかな?」
「はい、お願いします」
私と彼はピザ屋の車に乗った。車の中は凄まじく暑かった。冷房をつけた。
「いやぁ、ほんとに暑いね、熱中症気を付けないと」
「ほんとにそうですね」
彼は涼しい笑顔をして返事した。
「牧野君、何か飲み物とか持って来てる?」
「はい、一応水を持って来てます」
そう言って彼は鞄から黒い水筒を取り出して、私に見せた。
私は彼がシートベルトをしたのを確認すると、車を発進させた。
「牧野君って今高校生だよね?」
「そうです」
「どこの高校?」
「東高校です」
「へぇー、東高校かぁ。頭良いんだね」
「いや、そんな事無いです」
「今何年生?」
「2年です」
「じゃあ今17歳かな?」
「いや、まだ16歳です、誕生日は9月なので」
「あっ、そうかぁ、もうすぐだね」
赤信号で停まった。
私は彼の顔を見た。
黒い帽子の下の暗がりに、
陰影の中に、目鼻が常より高く
私の視線に気付いて彼がこちらを向いた。
切れ長の鋭い目で私の心を力強く捉えた。
私は顔が赤くなるのを感じて急いで視線を前に戻した。
「体が大きいけれど、部活は何してるの?」
「バスケ部です」
「へぇー、そうかぁ、やっぱり大変じゃない?あたしはバスケとか球技系は苦手なんだよねぇ」
公園に着いた。
私は彼とLINEを交換してから彼を車から降ろすと、また発進させて停められそうな所を探した。
公園をぐるりと周るといい感じに邪魔にならない場所があったのでそこに停めて、仕事を始めた。
腕時計を見た。
12時26分。
何時もより早く終わった。
汗が額から首から背中から大量に溢れていた。
LINEが来た。
牧野君からだった。
私は妙にドキドキした。
「お疲れ様です。先程の公園に居ます。」
私は半ば安心して、半ば失望した。
あたしったら何を期待してるのさ、馬鹿!
私は車まで戻るとエンジンをかけて冷房をつけ、先程の場所まで走らせた。
彼は炎天下に凛々しい姿で
「お疲れー。暑かったでしょう、体調大丈夫かい?」
「大丈夫です」
彼は車に乗り込んだ。
「井上さんも大丈夫でしたか?」
彼は汗だくの顔をこちらに向けるとこう言った。
私はドキッとした。
何だか心が踊るような感覚がして、胸がジーんと熱くなった。
「う、うん。大丈夫だよ」
私ははにかみながらそう言って、車を走らせた。
あたしはほんとに馬鹿だ!相手は未成年よ。
それにあたしはたとえ夫が浮気していても人妻よ。
目を覚ましなさい、あたし、あ、やばい、でも心が抑えられない。
あたしは彼の事が好き…かも、、、あたしは、彼の事が、、好きだ。
「井上さん、井上さんは結婚されてるのですか?」
赤信号で停まると、いきなり彼がそんな事を聞き出した。
「う、うん。そうだね、」
私は信号を見つめながらこう言った。
「幸せですか?」
は?どうしたの急に。
…なんでそんな事聞くの?あなたに一体私の何がわかるの?
「まぁ、どうだろうねぇ、、」
少しの間、車内の空気が沈黙に震えた。
あたし、幸せなのだろうか?私は夫の事を思い出した。
………
………
今日も夫は帰って来ない。
そして明日の朝、挨拶してもチラと睨まれて無視される。
私が朝食を作ってあげても夫は無愛想な不機嫌な顔をわざとしてそれを食べ、故意に少しだけ残すと勝手にそそくさと仕事に行ってしまう。
終日私はずっと一人。
そんな私の悲しい心を癒してくれるものは何も無い。
家で洗濯をして、料理をして、掃除をして、買い物をして、洗い物をして、掃除をして、料理をして、洗濯をして、掃除をして、新聞を読んで、ポスティングをして、仲間と談笑をして、料理をして、買い物をして、ニュースを見て、洗濯をして、洗濯物を畳んで、料理をして、洗い物をして、買い物をして、、、。
今年で28歳。
子供無し。
度々姑から電話が来て子供はまだか子供はまだかと迫って来る。
お母さん、そりゃあ私だって子供は欲しいですよ、でもあなたの息子さんが、健太が、、、いや、私が悪いんですかね?私に魅力がないから、夫の性欲をそそらす程の体でないから、、、。
………
………
私はハンドルを握りながら、目から溢れる涙を必死に抑えていた。
青になって、私はアクセルを踏んだ。
彼は顔を背けて窓の景色をじっと眺めていた。
店に着いた。
そして残ったチラシの枚数を数えて、それを区域ごとに記入すると、私達は残りの10分程(私と彼は13時までシフトが入ってる)の時間、テーブルでチラシ折をした。
時間になった。
折られたチラシ等を片付けて着替えると、私は店長の机の上にあるシフト表に来週のシフトを書き入れた。
私がシフトを記入している間に彼は、私達に挨拶して帰ってしまった。
間もなく書き終わると私も同じように挨拶して、店を出た。
と、帰っていた筈の彼が横から出てきて私の腕を掴み、店の横の人通りの少ない小道に引き連れた。
そして彼は私を店の屋根の下の影に引っ張って、両腕をグッと強く掴むと、力強い眼差しで私を見下ろした。