今年も合宿の季節がやってきた。
この静岡で行われる合宿は、マラソン同好会の大学生たちによって毎年行われており、私が参加するのは二度目だ。
去年、一年生として合宿に参加したときから、私はこの時を待ちわびていた。
「女将さん、今年もよろしくお願いします!」
「まぁ、瑞希ちゃん。今年も来てくれて嬉しいわ。ゆっくりしていってね」
民宿の女将さんに挨拶をすると、彼女はにこにこしながら私にお辞儀をしてくれた。
去年より少しシワが増えたように見えるのは、きっとこのご時世のせいで苦労しているからだろう。
「マラソン同好会さんには毎年毎年、何年も通ってきて貰って感謝しているわ。こんなオンボロ宿にありがとうね」
「そんな、女将さんがいい人だからです!それに……」
宿だって趣があって……と言おうとしたが、私はつい口ごもる。
そうなのだ、女将さんがいい人なのは間違いないし、宿泊料も安くて大学生にはありがたいし、周囲に民家がないから多少ハメを外しても誰にも迷惑をかけないし、ひんやりした空気はマラソンに向いているし、とってもいい宿なのだが……いかんせんオンボロなのである。
全十部屋の民宿の、半分くらいには狸や狐や幽霊が住んでいると言われても驚かないレベルだ。
「それに、この宿は築百年ですもんね!年季も入りますよね!」
「ふふ、ありがとう瑞希ちゃん」
でもねぇ、と続けた女将さんは、眉を下げて申し訳無さそうな顔をした。
「あちこちガタがきているし、実は今年で廃業しようと思ってるのよ。息子もこの民宿を継ぐ気はないって言ってるし」
「そ、そんな!」
廃業!?私は顔を青くして口をパクつかせた。
「そんなぁ……廃業しちゃうなんて……!」
「あらあら、うふふ。こんなに残念がってくれるのは瑞希ちゃんぐらいだわ」
「瑞希、早くおいでよー」
ショックのあまりたたらを踏みかけたところで、先に廊下を歩いていた同好会の仲間に声をかけられる。
適当に返事をして、女将さんに一礼すると、女将さんはにこにこしながら事務室に戻っていった。
私達が宿についたので、いつもの通り流行りの音楽をBGMとして流してくれるつもりだろう。
――廃業なんてことになったら、会えなくなっちゃう。
「わっ」
「お、……っと」
ふらふらと廊下を進んでいると、二階への階段を上がる手前で、長身の男性にぶつかった。
その相手に心当たりのあった私は、慌ててバッと顔を上げる。
「やっぱり、お兄さん!」
「ん?ああ、君……瑞希ちゃんだっけ」
「はい!覚えててくれたんですね。会いたかったですうう!」
ああ、一年ぶり!一年ぶりのお兄さんだ!
切れ長の瞳と、頭の後ろで結った烏の濡れ羽色の長髪。
だるっとしたTシャツにジャージという寝間着一歩手前の格好をしているが、スタイルの良さがそれをカバーし、セーフよりのアウトにまで押し上げている。
総評を述べるとすれば、長身で線の細い美青年、しかしニートっぽい。である。
「会いたかったって俺に?なんで」
「一目惚れしました。付き合って下さい!って去年言いましたよね?あとで返事してくれるって言うからLIMEのアドレス教えたのに、それっきり音沙汰ないんだもん。ひどくないですか?」
「ごめん、LIME使い方わからなくて」
「そっか、それなら仕方ないですね……って、そんなワケあるか!分かんないなら最初からLIMEでなんて言わなきゃいいんですよ!学生なんでおいそれと静岡まで来ることもできなくて、一年も待ったんですよ。いま、いま返事して下さい、YESって」
「YES以外は?」
「お兄さん、ほら聴いて下さい。女将さんが流行りの曲流してくれてますよね」
「うん」
「ちょうど今流れてる曲の歌手好きなんです。死ね、私を好きじゃないのならば。っていう歌詞、情熱的でいいですよね、って思えるタイプの人間です私」
「なるほど、軽々しくYESもNOも言わないほうがいいということだけは分かった」
「取り敢えず今日から猛アタックするので、最終的にYESって言ってもらえれば大丈夫です」
「何を以てして大丈夫だと言うのかな」
「ところで、この民宿継がないんですか?」
「うーん、もうボロボロだし。周辺にはもうこの宿ぐらいしか民家がないから、潰れちゃうと困るっちゃ困るんだけどね」
「廃村になっちゃいますかね」
「あ、上でお友だちが呼んでるけどいいの?俺も君たちのために、あっちの部屋片付けに行かなきゃいけないし、またね」
「はい!」
怠そうに去っていく背中を見やり、一年ぶりに会えた想い人への恋を噛みしめる。
「やっぱり……あの作戦を実行するしかない」
私はぎゅっと拳を握り、そう呟いた。
一年前から綿密に計画していたあの作戦を、実行する夜がついにくる。